はじめに

 私が医師を志した動機は、自分でいうのもおこがましい話だが、一人でも多くのがんの患者の命を救いたいと言う純粋な思いからであった。

実際に医師として社会に出て関わり始めたのは当時死亡率が第1位の肺癌の患者で、直接治療に関われる呼吸器外科であった。腕の立つ外科医を目指して日々手術に明け暮れる日々を送っていたが、思いとは裏腹に現実は厳しく治療成績は悲観的なもので、多くの患者を看取ることを常とするような状況であった。その当時は、早期発見・早期手術が患者にとっても治療者にとっても唯一の希望であり、多くの患者ががんとの闘病の末次々と亡くなってゆく現状に、ただ医術だけではどうしようもない大きな壁にぶち当たる中で出会ったのが『緩和ケア』であった。医術というスキルを超えて患者と向き合うホスピスケアの可能性に魅せられて、50歳の節目でメスを置きホスピスケア医としての道を選ぶ決断をして、現在の松山ベテル病院の門をくぐり本格的に取り組みだした始まりである。それから20年が経ち、当時の思いは冷めることなく今も現場で患者・家族の皆さんと向き合う日々を送っている。

 仕事を始めた当時は、しっかりとした系統的な教科書と言えば洋書の原著しかなく、病棟での日々の様々な症状への対応に右往左往するばかりで、症状緩和がうまくできず昼夜を問わず駆けずり回る日々を送っていた。そんな日常の中で、外科医だったころの疾患に縛られた視点から、人間としての一人の患者の生き方に寄り添うケアの在り方に、医療の原点を看るような思いで過ごせる自分に喜びを感じる日々でもあった。ちょっとした心無い前医でのスタッフの言葉に傷つき、ホスピス病棟でのスタッフの優しさに心の傷が癒されてゆく患者や家族の姿にホスピスケアの持つ力に魅了されていた。

 医療の現場では、“患者が先生であり患者に学べ”とよく言われている。しかし科学の発達はより客観的なデーターを基にした正確な治療の在り方が求められている。病気の治療が全面的に重要な局面ではデーターはとても大切な評価の指標となる。抗がん剤治療中の患者に頻回に採血検査を行うのは、抗がん剤の副作用で白血球が減少してしまう事があり、その結果肺炎を起こしてしまった場合時として致死的な結果に繋がる危険があり、頻回なデーター収集は治療を安全にかつ確実に行うためには不可欠なものである。その一方で、病気を持った人は病気だけではなく社会で生活して行くための様々な問題を抱えながら生きて行かねばならない。“患者に学ぶ”という医療の基本が、高度に専門化された治療の現場では時として忘れ去られている現状があり、緩和ケアは病気を持った“人”を看るという視点を示す医療の基本であると言える。

 人を看る視点は思うほどたやすいものではなく、多くの患者と接する中から少しずつ実感として身につけて行く時間がかかるもので、そんな中で出会ったのが正岡子規の随筆『病床六尺』であった。子規は当時死に至る病と恐れられていた結核に罹り35歳という短い生涯を閉じている。この随筆は子規が新聞「日本」に明治35年5月5日から亡くなる2日前まで連載され、死と向き合う人の嘘偽りのない心情を余すことなく表現し、病による苦痛・煩悶、果ては号泣する苦しみにもかかわらず、ふと感じる日々の生活の中での喜びや楽しみをユーモアをもって記されている。さらに、人生を賭して取り組んでいた近代俳句創出への熱い思いも書き綴られている。子規の文章は、死と隣り合わせで過ごしている人間でなければ感じることができない生きる事、死ぬこと、日々生活する事の素直な思いが余すことなく表現されているのもで、ホスピスケアを学ぶものとして終末期ケアにおける貴重な記録と言える。

 ホスピスケアという視点から『病床六尺』を読み解くことで、生きる力へのヒントであったりケアする者への寄り添う力になる事を期待している。