​子規と結核

 では、『病床六尺』をひも解いてみよう。

 

「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へ足を延ばして体をくつろぐことも出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つこと、癪にさはる事、たまにはなんとなく嬉しくてために病苦を忘るるやうなことがないでもない。・・・・・・・病人の感じは先ずこんなものですと前置きして・・・・」

 

第1回目の書き出しである。子規は明治35年9月17日に亡くなっているが、病床六尺はその年の5月5日に連載が開始となっているので、子規の人生の最後の4か月余りを記録したものとなる。書き出しの「病床六尺、これが我世界である。・・・」からイメージすると子規は畳2枚程度の空間で生活していたことになる。トイレは別としても食べる事、寝る事、人と会う事、などなど、生活のほとんどをタタミ2畳の中で過ごしていた事になる。この様な身の上になったのは子規が結核に罹ったことが始まりとなるが、まず結核から話を始める事にする。

 記録によると子規は22歳の時(明治22年5月、1889年)に喀血をきっかけに肺結核と診断されている(注1。その当時の結核と公衆衛生事情について見てみると、肺結核は明治期の近代化の波に乗って都市部で爆発的に流行している。当時、肺結核は肺病と呼ばれていたが、明治15年(1882年)コッホによって結核菌が発見され、肺病が結核菌によって発病することが証明された。明治37年(1904年)に「肺結核予防二関スル件」の内務省令が出され、結核が喀痰により伝染するという当時の学説に基づき、公衆の集まるところには痰壷を置き、痰の消毒を行い、結核患者が居住した部屋、使用した物品は消毒するように決められている。子規は明治35年に亡くなっているので、制令に基づく感染対策の徹底が行われる以前に自宅療養をしていたことになり、一般市民に流布する知識の中で療養していたと想像される(注2)。日本における人口動態統計は明治31年に「戸籍法」が制定されその翌年から全国統計が始まっているが、子規が亡くなった明治35年頃の死亡順位は第1位は肺炎、第2位に結核、第3位が脳血管疾患となっている。子規が発病した当時の一般の人達の肺結核に対する恐れの統計的な根拠がなかったとしても、死に至る病として認識されていたことは想像に難くない。子規は本名を常規というが、明治22年に喀血しその翌年の随筆『筆まかせ』第2編 明治23年の部「雅号」に「去歳春喀血せしより子規と号する故」という記述ある。子規とはホトトギスの異称で、ホトトギスは口の中が赤く鳴いている姿があたかも血を吐いているように見える事から、自分自身の身の上をホトトギスの姿に映したものと思われる。実際に子規は喀血した時に「卯の花をめがけてきたか時鳥」、「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を詠んでいる。不治の病で先行きを覚悟した子規の思いと本名との重なりで子規と雅号した子規のその後の人生が見えてくるような重みを感じる。

 

文献:

注1)和田茂樹 『正岡子規入門』平成5年5月 思文閣出版

注2)青木正和 『わが国の結核対策の現状と課題(1)-我が国の結核対策の歩み-』日本公衆誌 第55巻 第9号 667‐670 2008年