子規にとっての生きる「希望」(2)

 子規の文学への思いを一生の仕事として決定づける出来事はやはり「肺病」を病んだことであったと考えている。子規は明治21年に「七艸集」を執筆し、念願の小説「月の都」は明治25年に書き上げている。子規の肺病はその間の明治22年5月9日喀血によって始まるのであるが、当時「死に至る病」として恐れられていた結核に罹った事が子規にどのような想いに至らしめたかを知ることのできる記録が明治22年8月に記された「子規子」に詳細に語られている1)。

 「子規子」は、“子規子 子規子ヲ著ハス 啼血始末 血の綾 讀書辯ノ三篇ニ分ツ・・・”の序文から始まるもので、序文にあるように「啼血始末」「血の綾」「讀書辯」の3つで構成されたものである。「啼血始末」は喀血した様子を克明に記したもので、閻魔大王が子規を被告に見立てて尋問して答える問答の体裁で綴られている。「死に至る病」である肺病を自分の人生におけるただならぬ出来事であることを重く受け止めている子規の覚悟が窺い知れる記録であるが、子規のユーモアのセンスにあふれる閻魔大王との掛け合いの形で面白可笑しく表現している形は、子規の人間力の大きさが感じ取れると同時に子規の「悟り」の源泉のようにも感じられる。「血の綾」は喀血した夜にほととぎすの句を40、50詠んだものと言われているが、記録が現存しておらず詳細は不明である。世に知られている“卯の花をめがけてきたか時鳥”や“卯の花の散るまで鳴くか子規”の句が「啼血始末」の中に記されている。「啼血始末」の中で閻魔大王が被告子規に姓名を問う場面があり、子規は子規生という名を用いていると答えていて、正岡子規が“子規”と自らを名乗り初めの記録である。閻魔大王との問答の中で喀血の経緯やその後の様子が時間軸で克明に記録されているが、子規の喀血の様子がつぶさに分かる貴重な記録と言える。一方で、ここまで克明に記しているところに子規の「死に至る病=肺病」の重みを感じる記録でもある。子規は「讀書辯」の中で文学にかける思いを人生を賭してでも取り組もうとする覚悟を記している。

 「讀書辯」は、「啼血始末」の閻魔大王との問答の中で立ち合い人である赤鬼が被告の子規に“肺病は安静が第一で身体に無理が来る読書をやめようとしないのはなぜか”との問に“讀書辯”と題して詳しく心境を記しているので読んでほしい“と答え、赤鬼が朗読する体裁をとって思いを記している。子規は、まず人間の欲望の総量は同じで食欲・色欲・読書欲など様々な欲望が人によってその割合が様々であることから話をはじめ、自分の読書欲によって多少なりとも命に関わることがあっても仕方がないと言い切っている。数年前から読書欲のため身体が肺病に犯されてしまったことは仕方がないことで、喀血を機に子規と名乗ることになってしまったことは思いもよらないことであったが、ただ時期が早まっただけだと驚くことでもないと明言している。さらに、一生の目的は一巻でも多くの書物を読み一枚でも多くの文章を表わすことが願いであり、肺病のために寿命が短くなることで目的が果たせなくなることが辛いことであると、肺病によって寿命に限りがあることを感じ取っている子規の思いが伝わってくる。1年廃学することで5年、10年と寿命が延びれば良いが、そうでなければ1日たりとも書を読まない日があることが耐えられないと嘆き、一字でも多くの書を読むことが一生の願いであり、今の欲望を取ることが長い目で見れば良くないと分かっていながら、自分の気持ちであり我がままであることは十分に承知している事であると記している。子規の肺病に対する「死に至る病」で短い寿命を覚悟し一分一秒を惜しんで今を精一杯文学にかける時間を過ごす子規の将来に向けての宣言書とみて差し支えない意志を感じる。 

 

文献:

1)子規全集 第九巻 昭和52年 講談社