子規にとっての生きる「希望」(3)

“がん”という病はかつて「死に至る病」として重みのある響きがあったが、医学の進歩によって生存率が向上し慢性疾患として少しずつ認識に変化がみられてきている。しかし、かつての「死に至る病」のイメージは完全に払しょくされている訳ではなく「死を予感させる病」であり「死に直面する病」である重みは変わらない疾患である。緩和ケアは、命に関わるような病に罹った患者とその家族が病によってもたらされる身体的な問題や精神的な問題、社会的な問題、さらには霊的な問題を診断がついた時から認識し、問題解決ができるところは最善を尽くして取り組み、その人らしい生活や人生を送れるように支援することであると定義づけられている。様々な問題の中で、霊的な問題(スピリチュアルペイン)はその人の存在にかかわる問題で、人が人としてそこに存在しているという根本的な問題であり、ある意味ケアを行う上で究極的な対応が求められる問題である。その人がその人として存在している意味付けは、その人が人生で何を考え行動し人生の足跡をどのような形で残して来たかという過去に振り帰り、その中から限られた未来に何をしたいかという明確な“希望”と“希望”を具体的に実現するための行動の在り方が明確になることが、今をどのように生きてゆけば良いのかという答えに繋がるのではないだろうか。     

 

 子規は“肺病”という病を得た事で「死を予感させる」病と出会い、将来の寿命に限りがある事を受け入れざるを得ない状況を否応なく押し付けられる中で、将来の“希望”、子規にとってもっと明確な“人生の目的”を明治22年5月9日の出来事は触発したのだと考えている。子規は、新聞「日本」の社長である陸羯南と出会い、子規にとっての“人生の目的”である短詩形革新運動の実現に向けての経済的な基盤と同時に終生の縁を得るのである。病床六尺は亡くなる4か月前から新聞「日本」に毎日連載された随筆で、子規にとって肺病が「死に直面する病」として日々の子規の存在の意味を問いかける記録となるのである。子規が書き残した「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と言い切る中で、生きることを実践する日々が送れたのだと思っている。