子規にとっての生きる「希望」(1)

 子規は幼少のころから外祖父で儒学者であった大原観山から漢文の教えを受け、中学入学後は河東碧梧桐の父である河東静渓に漢詩を習い、仲間と詩の優劣を競う闘詩に興じていた。その後子規は上京し東京帝国大学への入学を果たし、その間に河東碧梧桐、高浜虚子、夏目漱石など子規の人生を左右するような多くの人との出会いの中で人脈を広げてゆくことになるのであるが、人との交流の広がりは俳句や短歌・小説など文学創作がその原動力であった。子規は東京大学予備門在学中の18歳ころから俳句を作り始めたと記録されている。子規は漢詩文、俳句、和歌などに生い立ちの中で自然な形で親しみ創作活動を模索していたが、帝国大学文化大学哲学科へと進み、ハーバード・スペンサーの文体論に大いなる影響を受けている。筆まかせ抄「スペンサー氏文体論」についての一文を記しているが1)、スペンサーの「最簡単ノ文章ハ最良ノ文章ナリ」という主張に大いに影響を受けつつ、文章の最後を「余は実ニ雲霧茫々の中に彷徨しつつあるものなり」と締めくくっている。子規の文学創作の方向性が徐々に短詩形革新運動への道に繋がる萌芽期であったと思われる。

  明治21年に「七艸集」(七草集)という、異なる7つの文体を秋の七草を見出しにして、漢文、漢詩、和歌、俳句、謡曲文、評論文、随筆集をまとめ上げている。河東碧梧桐は随筆「子規を語る」の中で、子規の文学への情熱を生き生きとした言葉で記している2)。

 

  ・・・・美文、小説、詩、和歌、発句、今様、都々一、何でも来いといった風に、各種各様の創作を網羅したものだった。持ち重りするほど厚みのある草稿だったが、私はまずその書体の秀麗なのに打たれてしまった。・・・・・・・・、子規という人が、人間的にも、詩人的にも、また社会的にも、完成した一人格者となった前時代のものであり、その修養期のものであり、同時に子規の大事業の捨て石でもあった。ともかく燃え上らんとする叡智と、開き始めんとする情熱とが、制御しきれない奔放な勢いで、口をつき、筆に任して煥発したものだ。

 

その当時の子規の文学創作にかける思いが地下のマグマの噴出のようなとてつもないエネルギーとして描かれている。その後、子規は念願であった小説「月の都」を明治25年に書き上げている。出来栄えを吟味してもらうため幸田露伴へ評価を求めたがあまり良い結果ではなかった。子規は河東碧梧桐へ宛てた手紙に「拙書はまず。世に出る事。なかるべし(以上の一行覚えず俳句の調をなす呵々)」としたためいるが、碧梧桐は子規の心情を喝破して以下のように記している2)。

 

 「拙書は先ず世に出ることなかるべし」を句の体をなしているなど興がった余裕を見せているけれど、その奥低には絶望的な悲哀の潜むのを看過することはできない。言うまでもなく幾分の自信を持っていた創作なのであるから、もし露伴が推称の労を惜しまなかったとすれば、子規はこれを出版して世に問う勇気を沮喪(そそう)する所以はなかったからだ。露伴訪問の結果、その期待を抛擲(ほうてき)せねばならなくなった、その当座の衷情(ちょうじょう)は恐らく毒を飲むようであったであろう。さも事もなげに、手紙の末尾に出版断念をほのめかしているのは、正直に言えば、子規の負け惜しみであった。煮えくりかえるような腹の中の懊悩を、強て自制した冷やかな言葉であった。

 

子規を間近で見ている碧梧桐ならではの率直な描写である。子規の文学にかける思い、特に短詩形文学への思いがより明確に方向づけられる出来事であったと思っている。

 

文献:1)筆まかせ抄 正岡子規著、粟津則雄編、岩波文庫、1985年

   2)子規を語る 河東碧梧桐著、岩波文庫、2002年