麻痺剤

 子規は明治34年10月13日の仰臥漫録に痛みの極を告白し、明治35年6月20日の病床六尺にも「……誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と煩悶するのであるが、その間痛み苦しみ続けた訳ではなく麻痺剤を使う事で痛みの緩和を図っている。しかし、この麻痺剤の服用がいつ頃から開始しているのかはっきりとした時期はよくわかっていない。さらに、麻痺剤の種類については一般的にモルヒネを使っていた事が知られているが、和田克司氏が2005年に俳文学第57回全国大会で「正岡子規について」というテーマで講演された記録に麻痺剤の種類と開始の時期について紹介したものがありとても参考になり貴重な記録である。和田氏の講演記録を基に子規がたどった疼痛緩和の流れを見てみることにする。

  弟子のひとりである森田義郎が短歌集「心の花」に明治35年1月14日の記録として麻痺剤について記録を残している。
「小子今まで見たうちにて一番苦痛の容体に見受け申候、尤も昨夏以来イタミの休みなく夕景に及んで抱水クロラール少量を用ゐこれにて一時間ばかりはイクラか苦痛を忘れ話の一口も仕度くならるるといふ例なるに……」

との記載があり、抱水クロラールが痛み止めとして子規の疼痛を緩和していた貴重な記録である。抱水クロラールは1832年にドイツで作られた薬で、当時は催眠剤として使われていた。現在も使用されている薬剤であるが、使用範囲は限定的で小児科領域における検査時の鎮静や催眠やけいれん発作時に座薬として用いられている。使用の時期は昨夏以来との記載から明治34年夏ごろから使用していることが窺える。さらに、

「この麻痺剤は昨年の夏の末ひどくいたまれてより常に用ゐられ、昨年末頃には服用しコツプを下に置くや否やイタミを忘れて談笑せられある時は、僕は一日の中でこの瞬間がなかったならばもー絶望だ。・・・」

と記述が続いている。抱水クロラールが痛みを和らげる効果を実感し、激痛の中で生きて行く辛さから一時でも解放された子規の安どの声が胸に響いてくる記述である。しかし、抱水クロラールは元々催眠剤として使われていたもので、痛み止めとしての効果は弱かったと想像され、痛みからくる心の苦痛が催眠作用で弱められることによって鎮痛効果が出ていたものと推察され、したがってその効果は持続的ではなかったと想像される。記述はさらに続き、

「……、この間も露月がたえず其薬をのむのはわるいといふてきたが、今となつてはいるとか悪いとかいつてをられる時ではない只瞬間でもこの苦痛を忘れさへすればいのだからなどと申されしに今や其薬も効なく二六時中只一秒時も苦を忘らるることかなはず、涙を流してウメかれ申候・・・・・」

と抱水クロラールの効果が見られない激痛に喘ぐ子規がそこに居た。文中にある露月とは石井露月の事で、文学を志し子規の指導の下にその才を磨いてゆくが、志を医師に変え故郷の秋田で開業の傍ら子規との交流も深めていた。医者の立場から露月は麻痺剤による鎮痛には反対の考えを持っていたようで、上記の様な記述が見られている。子規は苦痛の煩悶から生きる事の辛さを叫び、露月は医師の立場から生きることを最後まで願う思いが往復書簡に残されている。短歌集「俳星」に明治35年2月の記録として子規の書簡が紹介されている。

「百年ノ苦痛ハ一日ノ快楽ニ如カズ 長生シテ何ニナル 誤解々々 此頃ハ麻痺剤ノキヽガワルクテコマル 皆ガ僕ノ長生ヲ賀スルカラ愈困ル 翌死ヌル者ト思フテクレタラ今少シ楽ガ出来ルダロウテ」。

 

それに対して露月は、

「……、長生シテ何ニナル。成程苦痛の百年何にもならぬが、されバ死ンで何になるか、アヽこれでセイセイした、先刻までの苦痛は何所へやら杯と思ふことの出来るものならよけれど、さうでない以上ハ死ンだところでツマラヌ話に候。……、人間であつたものが人間にはあらで、蒼白い、ツメタイ物が横はる、声もない葬れば容もない、さびしい心細い感じは無分別に起り候。これは小生が死体検案をする時いつも起す感じに候。……、苦痛は苦痛で悲しく候へども、長生は長生で芽出度候。小生は大兄の苦痛を見ること大兄の死を見るよりはイクラ軽いか知れず候、即ち一日死延びて一日の慶と存じ候。……、イクラ患者乃家族の請求あつても瀕死の苦痛を去り安々と往生を遂げさせたいとてモヒの注射を多量にやる様なことはタヾの医者でもせざる事に候。……、以上、小生一個の感慨に過ぎるか知らねど、兎に角苦痛をこらえ長生専一と奉存候。」

苦痛に耐えて一日でも長く生きてほしいと願う露月の思いは、現代の緩和ケアの考えからすると真反対の薬の認識ではあるが、当時としては当たり前の考え方であったものと想像される。この手紙に対して子規は、

「他人デサヘソレ程死ナセタクナキモノヲ何デ自分ノ命ガ惜クナウテタマルモノカ 其大事ノ大事ノ命モイラヌ ドウゾ一刻モ早ク死ニタイト願フハヨクヨクノ苦痛アルトオモハズヤ 君ガ僕ノ長正ヲ喜ブハ君ノ勝手ナリ 僕ガ僕ノ長正ヲ悲ムハ僕ノ勝手ナリ 君ハ頻リニ死ノ悲ムベキヲ説ケドモ其悲ムベキヲ喜ブ所ノ僕ハ何ノ効力カアルベキ・・・叫喚大叫喚ノ曲ヲ聴キニ来タマヘ」

と地獄の苦しみに等しい苦痛の叫びを送っている。子規が麻痺剤として抱水クロラールを使い始めたのが明治34年夏ころで、その年の12月頃には効果が見られにくくなり苦痛にあえぐ日々を送っていた状況が上記の書簡記録から胸がえぐられる思いで伝わってくる。その後の明治35年3月の高浜虚子から露月へ宛てた書簡に

「……モヒの頓服も多き時は四回迄に上り候。朝起きるより夜寐る迄、激しき時は夜中も、唯煩悶に煩悶を重ねられ如何トモ致し方ナク僅にモヒの頓服を命と致サレ候。……子規君の話に、モヒを飲むが今にては何よりの楽しみなり。……」

という記載があり、明治35年3月頃からモルヒネの服用が始まったこと推測され、モルヒネの効果を実感し痛みからの解放を喜ぶ子規の心持が伝わる記述である。闘病記の一つである仰臥漫録は明治34年10月29日でいったん終了し、翌年の明治35年3月10日より記録が再開されていて、記録の内容は日々の暮らしぶりを綴る内容ではなくモルヒネの服薬日記の体裁の記録となっている。明治34年10月から明治35年3月までの仰臥漫録の空白の期間は、上述した内容で窺い知れるように自ら死を望むほどの地獄の苦しみにも等しい痛みとの戦いと、モルヒネの使用により痛みから解放され人間らしい正岡子規を取り戻した時期までの痛み地獄から生還した子規の記録と言える。

引用文献:1.和田克司 俳文学会第57回全国大会 講演録 P31-41、2005年10月9日 於松山東雲女子大学キャンパス