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子規のモルヒネ服用

 子規がモルヒネの服用を始めたのは明治35年3月頃と推測されるが、服用の状況を随筆『仰臥漫録』に克明に記録されている。『仰臥漫録』は明治34年9月2日から記載が始まり10月29日の記録でいったん中断し、明治35年3月10日から記述が再開している。服薬の記録は明治35年3月10日から始められていて、冒頭に“記録のなき日は病勢つのりし時なり”と記されている。『仰臥漫録』の明治34年10月30日から明治35年3月10日までの空白が疼痛による生活自体の苦痛・煩悶が窺い知れる期間に思え、モルヒネの鎮痛薬としての意味が感じられる空白期間である。服薬記述は3月10日から始まり3月12日でいったん止まっている。その後は空白期間があり6月20日より“麻痺剤服用日記”と子規自ら記載して7月29日まで毎日の服用状況が記録されている。1日に1-2回服用されていて、この期間で多いときに1日3回の服用が2日あり、服用しない日が2日のみで毎日服用していた様子が残されている。その後の服薬状況の記録は見当たらないが、記録から想像すると毎日服用していたものと推測される。モルヒネの服用が子規の生活の質を維持するのに大きな働きをしていたものと思われる記述が『病床六尺』の86回(明治35年8月6日)に見られる。

 

「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつている。けふは相変わらずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。……。午後になつて頭はいよいよくしやくしやとしてたまらぬようになり、終には余りの苦しさに泣き叫ぶほどになつてきた。…、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それから復写生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を写生した。………。とにかくこんなことして草花帖が段々に画きふさがれて行くのがうれしい。」

 

と綴っている。モルヒネによる疼痛緩和は十分な剤型の多様性がなかった明治のこの時代であったにもかかわらず、子規の子規らしい生活の質を保つ働きを十分にしていたことが窺える。この記述は亡くなる40日ほど前の記述であることを思うと、まさに明治期における在宅緩和ケアの実践記録と言えよう。

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