悟りとは(1)

『余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。』

病床六尺、第21回(明治35年6月2日)の記録である。子規は明治22年5月に喀血し、俳号を“子規”と雅号している。啼血の鳥と言われるホトトギスになぞらえて“子規”と名乗るようにした思いは、当時不治の病と恐れられていた肺結核にかかってしまったという漠然とした不安感が本名の“常規”を“子規”と名乗らせたのではないかと考えている。子規は明治28年3月に日清戦争従軍記者として中国へ渡り、帰路の5月に船中で大喀血をし、神戸で入院療養の後保養のため8月に故郷松山へ帰っている。皆さんもご存じの夏目漱石が下宿していた“愚陀仏庵”へ身を寄せることになるのである。
 神戸での療養中の明治28年7月に内藤鳴雪(子規に俳句の手ほどきを受けた俳人)に宛てた手紙に結核を患った不安を吐露している。

 『・・・・自分は死ぬると迄は思はざりしが、医者さへ気遣ひしと聞て、今更夢のやうに覚えて半ばうれしくなかば恐ろしく、はては老耄人の如くつまらぬ事に心配致候やうに相成候。・・・・・・、それにくらぶれば入院当時の勇気は我ながらえらきものにて、看護一人さへあれば畳の上に死ぬるには十分なりと定め・・・・・それを思へば今の老耄は実に恥かしく存候、・・・・・・・。今日の如き無気力にては、此御たとひ何年生きたりとも何事も出来申間敷候。此点よりいふも長く田舎に閑居して遊び居るは却て悪しく、矢張矢張都門に住みてはげしき競争の風に吹きまはさるゝ方が元気づくべきやと存候、・・・・』

 鳴雪への手紙は、“愚陀仏庵”へ居候する前の上陸後の施設療養中のもので、子規にとって死を予感させるほどの強い不安を抱かせた出来事であったと想像できる。そんな先行きが不透明な状況の中で弱音を吐かずいつ死んでも良いと啖呵を切って見せたものの、無気力に生きるより切磋琢磨して我がなすべき事に日々邁進したい子規の生きる事への強い思いが伝わってくる。明治28年10月に根岸の家へ戻るころに腰痛の訴えが見られるようになり、明治29年3月には痛みが脊椎カリエスによるものと判明しいよいよ寝たきりの生活が始まるのである。明治34年10月13日の仰臥漫録の記述(前出)は、激痛の苦しみから逃れることができるのであればいっそひと思いに死にたいと願いつつも死ぬこともできない自分に煩悶・号泣する自分を記している。


 子規の悟りの言葉は、肺病を得たときから脊椎カリエスの激痛の中で命と向き合う子規の生きざまそのものを表したものであると言ってよい。どんな状況下にあっても命尽きる最後まで生ききることを覚悟した子規の強い意志を示した言葉で、子規の人生の在り方を高らかに宣言した言葉と思えるのである。この悟りの言葉の記述には続きがあって、3行の禅問答が記載されている。この記述に子規の高らかな宣言の境地が表れていると思えるので少し触れてみたいと思う。