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心理的な問題:子規の人間力

“がん”は1981年に日本人における死亡率の第1位を占める疾患となり、1984年には国家的な戦略として第1次対がん10ヵ年総合戦略が策定され主に早期発見・標準的治療法の開発に重点が置かれたがん対策が開始された。この当時は結核と同じように“がん”は死に至る病と恐れられ、病名は非がん疾患の病名で伝えられるのが当たり前のような時代で、胃がんであれば胃潰瘍、肺がんであれば慢性肺炎という感じであった。この当時の患者との向き合い方として「がん病名を本人へ伝えるべきかどうか」が大きな問題であった。医学の発展により治療成績も向上し、現在においては慢性病として位置づけられるようにとらえ方も変化している。とはいっても“がん”は死を予感させる病であり、難治がんでは死と向き合わざるを得ない疾患であることには間違いはない。いまだ死亡率の第1位を占める疾患であることがそのことを物語っている。さらに、病名を本人へ伝える表現として“告知する”という言葉が現在での当たり前のように使われていて、がん以外の疾患では見られない“死に至る病”と捉えられていた頃の名残が今の時代に息づいている。したがって、がん病名の伝え方として“悪い知らせ(bad news)を伝える”という姿勢が患者/家族の皆さんと向き合い方として求められている。当然ながらがん病名を伝えられた患者の多くは衝撃をもって告知を受け止め、不安や恐怖など心理的な反応を起こしてしまう。一部の患者は落胆や絶望感から鬱的な状態となり、専門家が関わる必要があるうつ病へ進展してしまう事もある。緩和ケアの定義にもあるように、命に関わるような疾患に起因する問題の中で心理的な問題は重要な位置づけにあることを決して忘れてはいけない問題の一つである。

 子規は明治22年5月9日喀血をきっかけに当時「死に至る病」として恐れられていた肺結核という病を突き付けられ、俳号を「子規」と名乗るほどの衝撃を受けたであろうと想像しているが、明治22年8月に記された随筆「子規子」にその思いが余すところなく残されている(子規にとっての生きる「希望」(2)に詳述)。死を予感させる病として漠然とした先行きの不安が子規の文学にかける思いをより強いものにしていったきっかけであったと考えている。「病床六尺」は子規最晩年の生活がわずか畳2枚分の空間の中に押し込められた日常生活を記したものであるが、ただ単純に狭い空間での生活の不自由さではなく、そこにはカリエスによる激痛との戦いが有り煩悶・号泣の日々を強いられる空間でもあった。このような生活の中では怒り・不安・悲しみ・恐怖といった負の感情が沸き起こり精神を病んでもおかしくない日々であったと思われるが、「病床六尺」には、子規の「書く事、書き残すこと」という文学にかけるほとばしるほどの思いがあふれている。しかし、ただの使命感だけではこのような記録は残せるものではない。子規が結核と言う病と対峙してゆく過程の中で起こる“負の感情”であったり“希死念慮”と言われる死を願う思いを克服してゆく力は、一つに子規の人間力であり、もう一つに子規を支える介護者の存在と短詩形文学創造の仲間の存在にある。子規の人間力とは、日々の生活の中で感じる日常的なものに素直に興味を持ち何らかの形に表す「写生」するという事を子規が大切にしていたという事と子規の生来持ち合わせているユーモアのセンスにあったと思っている。子規の人間力について少し触れてみたい。子規の人間力の一端を伺わせる文章が第1回目の中にすでに生き生きと記されている。

 

・・・、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つこと、癪にさはる事、たまにはなんとなく嬉しくてために病苦を忘るるやうなことがないでもない。

 

そこで、127回綴られた文章を私流に分類を試みてみた。趣味の話が65回・俳句の話が25回・緩和ケアについての話が23回・病状の話が7回・世相の話が7回であった。俳句の話が25回と意外と少なく、圧倒的に趣味の話が多く半数以上を占めているのがとても興味深い。子規はカリエスの痛みに耐えながらもその日その日の出来事を子規流の洞察力で紐解き、日常を普通に過ごしていた事が、死に至る4ヵ月間が闘病の期間でありながら普通の毎日にしていたのだと思えるのである。

ユーモアについてアルフォンス・デーケンは「にもかかわらず笑う」と定義しているが、子規も闘病からくる煩悶・号泣を日常という普段の生活の中に包み込んで病人子規ではなく人間子規とし毎日を過ごす姿を病床六尺は記している。病床六尺の中で子規のユーモアの真骨頂と私が思う箇所があり紹介したい。第126回目の随筆で、最後からひとつ前、旅立つ4日前の記述である。

 

芭蕉が奥羽行脚の時に、尾花沢といふ出羽の山奥に宿を乞ふて馬小屋の隣にやうやう一夜の夢を結んだ事があるさうだ。ころしも夏であつたので、

 蚤(のみ) 虱(しらみ) 馬のしとする 枕許(まくらもと)

といふ一句を得て形見とした。しかし芭蕉はそれほど臭気に辟易はしなかつたらうと覚える。上野の動物園にいつて見ると(今は知らぬが)前には虎の檻の前などに来ると、もの珍し気に江戸児(えどっこ)のちやきちやきなどが立留(たちどま)つて見て、鼻をつまみながら、くせえくせえなどと悪口をいつて居る。その後へ来た青毛布のぢいさんなどは一向匂ひなにかには平気でただ虎のでけえのに驚いて居る。

 

芭蕉の句は、ノミやシラミに責められて枕元には馬のお小水の音が響く、という情景を句にしたものであるが、子規の病床は排泄物の匂いやカリエスの膿の匂いなど異臭が立ち込めていた事が想像されるが、子規は芭蕉句を引き合いに出して病床の悲惨な状況を笑いで表現した秀逸と言える記録である。それも旅立つ4日前の記録と思えば、子規の人間力の高さを感じざるを得ない一文であり、ただただ脱帽の心境である。

「病床六尺」は半数以上が趣味の話であるが、子規は俳句創作だけではなく絵を描くことが好きだったようで、多くのスケッチ画を残している。これも「写生」の心がなせるものであったと思っている。また、子規の仲間が古今の有名な画帳を持ち込んでは、絵画談義に花を咲かせる多くの記述が見られている。子規の心の有り様として「普通の日常的なもの」を大切にした生き方がそこにあり、その事そのものが生きる力を生み出す基であり、ここにホスピスケアの在り方の本質の一つがあるように思えるのである。ホスピスケアを受けられている方には2つの生き方があるように感じているが、病人として過ごしている方と、病気は持っているものの本来のその人として過ごしている方である。死に至るような大きな病気を持っていながら冷静に日々の生活を送れる人などいるはずも無いと思っているが、病人として過ごしている人は心の大半が疾患に向かってしまうために、ちょっとした体の変化に敏感になりすぎて残された時間を、我を失くして過ごしているように見えてしまう。子規の言う「いついかなる時も生きている事である」という悟りがその人らしさを失うことなく過ごすためには必要なことで、その人らしさを失くさない生き方とは「日常的なもの」を大切にした生き方にあるのであり、「病床六尺」が日常の在り方の子規の実践記録と言える所以であると思っている。

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