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社会的問題、日常的なものを支えた力

 「日常的なもの」すなわち「日常生活」を支える力として、子規の生活において3つのことを挙げておきたい。それは、経済力・家族力・仲間の力の3つである。まず、経済力から話を進めることにする。

【経済力】

  子規が随筆「病床六尺」の執筆に至るまで、病床に臥しながら家計を支える経済的な基盤は陸羯南との出会いなくして語れない。陸羯南は青森県生まれの政治評論家で自ら日本新聞を立ち上げジャーナリストとして活躍した人である。羯南と子規の出会いは比較的に早く、明治16年に叔父の加藤拓川を頼って上京した折に、拓川を通じて出会ったのが最初である。子規16歳の時であった。羯南は、「浴衣一枚に木綿の兵児帯」という田舎書生の風体で、話がどこか大人びた印象を持ったことを、「子規言行録」の序に最初の出会いの印象を記しているが、その後は親密な付き合いがあったわけではなく、転機は明治24年の秋に訪れる。

子規は羯南が住んでいる根岸宅を訪れ、来年(明治25年)に大学を卒業の予定になっているが、病気のために廃学するつもりだと告げたという。羯南は子規の結核については詳細を認識していなかったようで、我慢して卒業してはどうかと話したところ、俳句の研究が面白くなり大学を辞めて研究に専念したい固い決心を吐露し、根岸に住まいを移したいので貸家を世話して欲しいというのである。そして、明治25年3月に羯南宅の向かいに住まいを移したのである。まだ東京大学在学中であったが、羯南からの勧めで子規の随筆が日本新聞に掲載されるようになり、大学を辞めた後はある意味自然な成り行きで日本新聞入社の道へとつながり、松山から母八重と妹律を呼び寄せ、名実ともに社会人として子規一家の主として新しい生活がスタートしたのである。子規は亡くなる4年前の明治31年に河東碧梧桐の兄である河東銓に手紙を書いている。自分が死んでも石碑などはいらないし、石碑を立てたとしても長ったらしいものは嫌いでこんなものはどうかと墓誌銘が同封されていたという1)。正岡常規としてそしてまた俳人子規として残された期間を過ごす覚悟が感じられる文章である。

 

 正岡常規 又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人 伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル 日本新聞社社員タリ 

 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十圓

 

陸羯南の出会いは日本新聞入社という家族を養うための経済的な支援へと繋がり、子規にとって死に至る病を抱えた身にとってこの上もない大きな支えであったと思われる。没年を三十□年と記している子規の想いは、限られた時間の中で家族と共に終の棲家として自宅で過ごす目的や意味を明確に示したものとも言える。さらには社員となったことで「書く事」「書き残すこと」という子規が抱いた夢の実現の舞台を提供してもらったとも言える。

先にも触れたが小説家を目指し華々しくデビューするはずの「月の都」は頓挫し、短詩形文学創造へと軸足を変えつつあった子規にとって、世に作品を出す舞台ができたことはその後の子規の文学創造の大きな支えであったと思われる。柴田宵曲の「子規居士の周囲、陸羯南」によると2)、実際に明治25年5月より紀行文の「かけはしの記」や俳論である「獺祭書屋俳話」が日本新聞に掲載されている事が記されている。

 

文献:1)伝記正岡子規 松山市教育委員会編 P245、1979年

   2)子規居士の周囲 柴田宵曲著 岩波文庫 P192、2018年

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