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<朗読>正岡子規「病床六尺」を読む【第十九回】

更新日:2023年5月19日



『病牀六尺』は、松山出身の文人・正岡子規が、明治35年5月5日から亡くなる2日前の

9月17日まで、死の病と向き合う苦しみ・不安、日々のたわいもない日常の風景、介護し

てくれる家族のこと、文学、芸術、宗教など日々心の底から湧いてくる気持ちを日々書き綴

った随筆です。日本人に100年以上読み継がれる名作ですが、同時に死と向き合う心情を赤

裸々に包み隠さず表現した闘病記録です。透明な躍動感とユーモアを放つ子規文学の「響き」をお届けします。





<本文>

○立斎広重は浮世画家中の大家である。その景色画は誰もほかの者の知らぬ処をつかまへて居る。殊に名所の景色を画くには第一にその実際の感じが現はれ、第二にその景色が多少面白く美術的の画になつて居らねばならぬ。広重は慥にこの二カ条に目をつけてかつ成功して居る。この点において已に彼が凡画家でないことを証して居るが、なほそのほかに彼は遠近法を心得て居た。即ち近いものは大きく見えて、遠いものは小さく見えるといふことを知つて居た。これは誰でも知つて居るやうなことであるが、実際に画の上に現はしたことが広重の如く極端なるものはほかにない。例へば浅草の観音の門にある大提灯を非常に大きくかいて、本堂は向ふの方に小さくかいてある。目の前にある熊手の行列は非常に大きくかいてあつて、大鷲神社は遥かの向ふに小さくかいてある、鎧の渡しの渡し舟は非常に大きくかいてあつて、向ふの方に蔵が小さくかいてある。といふやうな著しい遠近大小の現はしかたは、日本画には殆どなかつたことである。広重はあるいは西洋画を見て発明したのでもあらうか。とにかく彼は慥に尊ぶべき画才を持ちながら、全く浮世絵を脱してしまふことが出来なかつたのは甚だ遺憾である。浮世絵を脱しないといふことはその筆に俗気の存して居るのをいふのである。


正岡子規「病牀六尺」

初出:「日本」1902(明治35)年5月5日~9月17日(「病牀六尺未定稿」の初出は「子規全集 第十四巻」アルス1926(大正15)年8月)

底本:病牀六尺

出版社:岩波文庫、岩波書店

初版発行日:1927(昭和2)年7月10日、1984(昭和59)年7月16日改版

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