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<朗読>正岡子規「病床六尺」を読む【第十六回】



『病牀六尺』は、松山出身の文人・正岡子規が、明治35年5月5日から亡くなる2日前の

9月17日まで、死の病と向き合う苦しみ・不安、日々のたわいもない日常の風景、介護し

てくれる家族のこと、文学、芸術、宗教など日々心の底から湧いてくる気持ちを日々書き綴

った随筆です。日本人に100年以上読み継がれる名作ですが、同時に死と向き合う心情を赤

裸々に包み隠さず表現した闘病記録です。透明な躍動感とユーモアを放つ子規文学の「響き」をお届けします。





<本文>

○甲州の吉田から二、三里遠くへ這入つた処に何とかいふ小村がある。その小村の風俗習慣など一五坊に聞いたところが甚だ珍しい事が多い。一、二をいふて見ると、

 総てこの村では女が働いて男が遊んで居る。女の仕事は機織であつて即ち甲斐絹を織り出すのである。その甲斐絹を織る事は存外利の多いものであつて一疋に二、三円の利を見る事がある。尤も一疋織るには三日ほどかかる、しかしこの頃は不景気で利が少いといふ事である。一家の活計はそれで立てて行くのであるから従つて女の権利が強くかつ生計上の事については何もかも女が弁じる事になつて居る。男の役といふは山へ這入つて薪を採つて来るといふ位の事ぢやさうな。

 甲斐絹の原料とすべき蚕かいこはやはりその村で飼ふては居るがそれだけでは原料が不足なので、信州あたりから糸を買ひ入れて来るさうな。その出来上つた甲斐絹は吉田へ行つて月に三度の市に出して売るのである。

 甲斐絹のうちでも蝙蝠傘になる者は無論織り方が違ふ。

 機を織るものは大方娘ばかりであつて既に結婚したほどの女は大概機を織るまでの拵へにかかつて居る。それがために娘を持つて居る親は容易にその娘の結婚を許さない。なるべく長く(二十二、三までも)自分の内に置いて機を織らせる。その結果は不品行な女も少くないといふ事である。

 古来の習慣として男子が妻を娶らうと思ふ時には先づ自分の好きな女に直接に話し合ふて見る。その女が承諾したらばそれから仲人の如きものをして双方の親たちに承諾せしむるのである。女の親が承諾しないといふやうな場合には男は数多の仲間を語らひてその女をかどはかし何処かに隠してしまふといふやうな事がある。しかしこの頃ではさういふ事が少くなつたさうな。

 この村は桑園菜畑抔は多少あるが水田はない、また焼石が多くて木も草もないやうな処がある。

 この辺の習慣では他人の山林へ這入つて木を樵つて来ても咎めないのである。柿の木などがあればその柿の実は誰でも勝手に落して食ふ。干柿などがあればその干柿を取つて来て食ふ。さうして何某の内の柿を取つて食ふたといふ事を公言して憚らないさうな。

 この辺は勿論食物に乏しいので、客が来ても御馳走を出すといふ場合には必ず酒を出すのである。下物は菜漬位である。女でも皆大酒であるといふ事ぢや。

 この辺は固より寒い処なのでその火燵は三尺四方の大きさである。しかし寝る時は火燵に寝ないで別に設けてある寝室に行て寝る。その寝室は一人々々に一室づつ備はつて居る狭い暗い処であつて蒲団は下に藁蒲団を用ゐ、別に火を入れる事はない。さうしてその蒲団は年が年中敷き流しである。(寝室の別にあるところは西洋に似て居る。)

 寝室に限らず余り掃除をする事がない。

 客が来ても客に煙草盆を出すことはないさうな。もし客が巻煙草でも飲まうと思へば其処にある火燵で火を附けるか、または自らマツチを出して火を附けるかする。その吹殻の灰を畳のへりなどへはたき落して置いて平気のものである。

 前いふたやうに機織の利が多いのにほかにこれといふ贅沢の仕様もないので、こんな辺鄙の村でありながら割合に貧しくないといふ事である。

 この村には癩病は多い。それがためかどうかは知らぬが、今までは一切他の村と結婚などはしなかつたといふ事である。


正岡子規「病牀六尺」

初出:「日本」1902(明治35)年5月5日~9月17日(「病牀六尺未定稿」の初出は「子規全集 第十四巻」アルス1926(大正15)年8月)

底本:病牀六尺

出版社:岩波文庫、岩波書店

初版発行日:1927(昭和2)年7月10日、1984(昭和59)年7月16日改版

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