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<朗読>正岡子規「病床六尺」を読む【第十四回】



『病牀六尺』は、松山出身の文人・正岡子規が、明治35年5月5日から亡くなる2日前の

9月17日まで、死の病と向き合う苦しみ・不安、日々のたわいもない日常の風景、介護し

てくれる家族のこと、文学、芸術、宗教など日々心の底から湧いてくる気持ちを日々書き綴

った随筆です。日本人に100年以上読み継がれる名作ですが、同時に死と向き合う心情を赤

裸々に包み隠さず表現した闘病記録です。透明な躍動感とユーモアを放つ子規文学の「響き」をお届けします。





<本文>

 古洲よりの手紙の端に

御無沙汰をして居つて誠にすまんが、実は小提灯ぶらさげの品川行時代を追懐して今日の君を床上に見るのは余にとつては一の大苦痛である事を察してくれ給へ。

とあつた。この小提灯といふ事は常に余の心頭に留まつてどうしても忘れる事の出来ない事実であるが、さすがにこの道には経験多き古洲すらもなほ記憶してをるところを以て見ると、多少他に変つた趣が存してゐるのであらう。今は色気も艶気つやけもなき病人が寐床の上の懺悔物語として昔ののろけもまた一興であらう。

 時は明治二十七年春三月の末でもあつたらうか、四カ月後には驚天動地の火花が朝鮮の其処そこらに起らうとは固もとより知らず、天下泰平と高をくくつて遊び様に不平を並べる道楽者、古洲に誘はれて一日の日曜を大宮公園に遊ばうと行て見たところが、桜はまだ咲かず、引きかへして目黒の牡丹亭とかいふに這入り込み、足を伸ばしてしよんぼりとして待つて居るほどに、あつらへの筍飯たけのこめしを持つて出て給仕してくれた十七、八の女があつた。この女あふるるばかりの愛嬌のある顔に、しかもおぼこな処があつて、かかる料理屋などにすれからしたとも見えぬほどのおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいはず独り胸を躍らして居つた。古洲の方もさすがに悪くは思はないらしく、彼女がランプを運んで来た時に、お前の内に一晩泊めてくれぬか、と問ひかけた。けれども、お泊りはお断り申しまする、とすげなき返事に、固よりその事を知つて居る古洲は第二次の談判にも取りかからずにだまつてしまふた。それから暫くの間雑談に耽ふけつてゐたが、品川の方へ廻つて帰らう、遠くなければ歩いて行かうぢやないか、といふ古洲がいつになき歩行説を取るなど、趣味ある発議に、余は固より賛成して共にぶらぶらとここを出かけた。外はあやめもわからぬ闇やみの夜であるので、例の女は小田原的小提灯を点じて我々を送つて出た。姐さん品川へはどう行きますか、といふ問に、品川ですか、品川はこのさきを左へ曲つてまた右に曲つて……其処まで私がお伴致しませう、といひながら、提灯を持つて先に駈け出した。我々はその後から踵ついて行て一町余り行くと、藪のある横丁、極めて淋しい処へ来た。これから田圃たんぼをお出になると一筋道だから直ぐわかります、といひながら小提灯を余に渡してくれたので、余はそれを受取つて、さうですか有難う、と別れようとすると、ちよつと待つて下さい、といひながら彼女は四、五間後の方へ走り帰つた。何かわからんので躊躇してゐるうちに、女はまた余の処に戻つて来て提灯を覗きながらその中へ小さき石ころを一つ落し込んだ。さうして、さやうなら御機嫌宜よろしう、といふ一語を残したまま、もと来た路を闇の中へ隠れてしまふた。この時の趣、藪のあるやうな野外のはずれの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提灯の中に小石を入れて居る佳人、余は病床に苦悶して居る今日に至るまで忘れる事の出来ないのはこの時の趣である。それから古洲と二人で春まだ寒き夜風に吹かれながら田圃路をたどつて品川に出た。品川は過日の火災で町は大半焼かれ、殊ことに仮宅かりたくを構へて妓楼ぎろうが商売して居る有様は珍しき見ものであつた。仮宅といふ名がいたく気に入つて、蓆囲むしろがこひの小屋の中に膝と膝と推し合ふて坐つて居る浮うかれ女めどもを竹の窓より覗いてゐる、古洲の尻に附いてうつかりと佇たたずんでゐるこの時、我手許より※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの立ち上るに驚いてうつむいて見れば、今まで手に持つて居つた提灯はその蝋燭ろうそくが尽きたために、火は提灯に移つてぼうぼうと燃え落ちたのであつた。


うたゝ寐に春の夜浅し牡丹亭

春の夜や料理屋を出る小提灯

春の夜や無紋あやしき小提灯


正岡子規「病牀六尺」

初出:「日本」1902(明治35)年5月5日~9月17日(「病牀六尺未定稿」の初出は「子規全集 第十四巻」アルス1926(大正15)年8月)

底本:病牀六尺

出版社:岩波文庫、岩波書店

初版発行日:1927(昭和2)年7月10日、1984(昭和59)年7月16日改版

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